当時は京都市紫野、臨済宗大本山大徳寺の末寺であり、金山明昶禅師により應永年間(15世紀初頭)に創建された。その後衰微の時期を経過したが、江戸時代初頭、沢庵宗彭禅師により復興され、更に慶安5年、豊岡城主、杉原伯耆守より寺領の寄進を受け、今日寺容が築かれた。当時の本堂は、明治45年焼失し、現在の本堂は対象10年に復元された。三門のみ当時の姿を現存し、城崎町文化財に指定されている。
境内は、「清閑庭」と称され、白と黒の対比のある枯山水の石庭となっており、裏山から湧出する清泉[独鈷水]が庭内をうるおしている。その泉源には、線刻の薬師如来が祀られ眼病に誠に霊験あらたかと言われている。境内には、剣豪岩見重太郎が天の橋立に行く途中一夜を過ごしたと伝えられる庚申堂があり青面金剛大童子が祀られ熱病封じの霊験がある。門前、放生池には弁才天が祀られ一人一芸必ず成就されると伝えられる。三門前には明和6年、夢告により建立された一星地蔵尊があり童男童女の守護仏として尊崇されている。裏山は四国山と称する霊山で、山頂には大師堂が、参道には88の石仏が祀られるなど、浄域に囲まれた静寂な禅寺である。
|